日々少しずつ。文学

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ミステリーにおいて背景化される証拠について

 近いうちにアガサ・クリスティアクロイド殺し」についての簡単な発表を行うことになったので、ここ数日ミステリーをいろいろ読んでいます。読んでて少し気になったのがタイトルの通り、証拠についてです。

 

 有名な著作なのでご存知の方も多いと思うのですが、「アクロイド殺し」には、「アクロイドを殺したのは誰か」という、フランスの文芸批評家であるピエール・バイヤールによる著名な評論が存在します。今回の問題意識はその内容から少し着想を得たものです。せっかくのミステリー作品なので、あまり作品の具体的な話はせず、ネタバレしないようにこの記事の中では書いていく予定です。

 

 さて、それでは本題の証拠についてです。ミステリー作品では多くの場合、読者をミスリードさせるという目的のもと、多くの謎が提示されます。謎というのも、犯人は誰かといった大きな話ではなくて、犯行現場に残されている謎のコインや、思わせぶりなダイイングメッセージなどです。そのようにいかにも怪しげな証拠が多数出てくる中で、読者はそれらを組み合わせ、犯人を予想しながらミステリーを読んでいくことになると思います。

 

 このように犯人を追うのは読者だけではありません。多くのミステリー小説、特に、「シャーロック・ホームズ」などの系譜を引いた探偵が事件を解決するミステリーでは、偽の証拠に翻弄される咬ませ犬が存在します(多くの場合警察、シャーロック・ホームズならレストレード)。彼らがそうしたミスリーディングな証拠を必死に追い求める一方で、探偵は複数の証拠の中から犯人の特定につながる本質的な証拠を直感的に見極め、犯人にたどり着きます。

 

 多くの小説では、最終シーンにいたるまでに咬ませ犬が追っていた証拠では犯人にたどり着けなかったり、推理に矛盾が生じたりし、彼らは途方に暮れることになります。そこに颯爽と現れた探偵が、全てを解き明かし、大団円。何冊かの推理小説を読めば一度はぶつかる構図だと思います。

 

 ここまで整理した中で、私が強調した部分、探偵が本質的な証拠を直感的に見極めるということが、思考のポイントです。多くの場合、探偵はなんらかの証拠に注目する際は、なぜその証拠に注目したのかについての説明をするものですが、反対に注目しなかった証拠については「こんなのはミスリーディングに過ぎない」と無根拠に一蹴します。説明があってもせいぜい類型的なもの「こういうのはよくあるミスリーディングだ」などだけだと思います。

 

 もちろん私もミステリーを大量に読んでいるというわけではないので断言はできないのですが、現実的な話の展開から考えれば、ある証拠に注目しない根拠を論理的に示すことがまず不可能であることが、わかると思います。事件の背景について何も知らない状態で事件を見る限り、全ての証拠は等価に存在しているはずであり、それら全てについて仔細に検討することなしに、なんらかの証拠を背景化することは行い得ないはずです。

 

 このように、探偵がある事実を棄却することには、なんらかの恣意性が存在することがわかりました。他の形態の小説に比べて論理的な厳密さの要求水準が高いミステリーという形式において、この恣意性はどのようにして補われるのでしょうか。それは先にも述べた咬ませ犬たる存在の捜査によってです。彼らが探偵からはミスリーディングとして一蹴された証拠について調査を行い、最終的にそれが犯人につながらないということを示すことによって、探偵の恣意的な判断の結果が、正しいものであることを担保されているのです。逆に言えば、咬ませ犬による捜査も行われず、探偵からも棄却されてしまった証拠は、完全なブラックボックスになってしまうのです。

 

 このようなブラックボックスがありながらも、私たちが特定の人物が犯人であったと確信できる根拠は犯人とされた人物の自白や手記によるしかありませんが、その自白の信用性については、基本的に読者は知り得ません。これは後期クイーン的問題とも通じるところになります。逆に言えば、先に述べたブラックボックス化によるテクスト上での犯人の決定不可能性を完全に排除するためには、大量の咬ませ犬を用意して、全ての証拠について検証をさせるということが一つの回答となるのかもしれません。もちろん物語世界内にあり得た何らかの新たな証拠の存在可能性について棄却することはできないですし、探偵も含めた捜査員の捜査が不十分である可能性は消しきれません。それにもはや探偵小説というよりも人海戦術で砂の中の針を探すような途方もないものになってしまうと思いますが。