日々少しずつ。文学

読んだ本や考えたことについて書きます

まなざしの倒錯

 年が明けてから延々と苦しめられてきたレポートもついに終わったと言うことで、昨日神奈川芸術劇場で開催されていた冨安由真展|漂泊する幻影を見に行って来たので、その感想を簡単にまとめておければと思います。

 はじめに、 開催概要について簡単にまとめておきます。場所は神奈川芸術劇場、期間は2021年1月14日[木]〜31日[日]ということでもう終わってしまうのが非常に残念です。今回の展覧会のコンセプトは「冨安は、絵画、インスタレーション、ビデオなどによる多様なメディアを用いて、不可視なものに対する知覚を鑑賞者に疑似的に体験させる作品を制作しています。通常ならば演者が存在する劇場という場所において、「不可視なもの・確かでない存在」をテーマとする冨安が初めて挑む劇場での新作インスタレーションです。*1」ということで、後述しますが、このコンセプトにあるとおり、劇場という場所が創作の中でとても有効に機能していたように感じました。

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 それでは本題に入っていくのですが、今回の展覧会には普通の展覧会とは異なる点がいくつもありました。それを象徴的に表すのが次の写真です。

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 この写真であるように、この展示会は基本的に真っ暗な部屋の中で行われ、 作品に光が当てられているといった構成になっていました。さらに面白いのが、この部屋には複数の作品があるのですが、その作品のすべてに光が当たっているのではなく、一つ一つの作品に順番に光が当てられていたと言うことです。そのため、観者はスポットライトを追いかけるような形で作品を鑑賞することになります。このような作品を追いかけるという構図は、静物を鑑賞するという一般的な芸術鑑賞と比べて画期的だったように思えます。特に、展示の中で動物の剥製が置かれていたこともこの展覧会の動的イメージを駆り立てます。

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 加えて、この作品を追って動くというアクションに、この展覧会ではさらなる意味が付与されています。そこにおいて重要な要素となるのが音です。この会場では、光の場所が変わる際にはその合図となるかのように、鳥の鳴き声や草の揺れる音など、自然の音が流れます。そしてこれらの音が流れたとき、観者はみな動きを止め、耳を澄ませます。こうした過程は、今や人類の歴史に埋没してしまった狩猟時代のヒトのあり方を私たちに想起させます。これは言い換えると、私たちが人間という動物と一線を画した存在であることをやめ、ヒトとして彼等と同化することにつながります。このことは、人間の暮らしの中に動物の剥製が配置されるというこの作品の構図とも対照的です。

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  こうして、人間と動物の垣根が揺さぶられた上で、この展覧会ではさらなる揺さぶりが行われます。それがこの記事の表題にもなっているまなざしの倒錯です。先ほどこの展覧会における作品鑑賞の視点がまるで狩猟をするかのようであったということは述べましたが、この狩猟的な視点だけでは、人間とその他の動物の関係は狩る側と狩られる側、より抽象化すれば見る側と見られる側で固定化されています。こうしたまなざしの一方通行性がこの展覧会では解体されているのです。こうした揺さぶりを生み出すのが光と暗闇です。先ほどから書いているように、この展覧会では移りゆく光を追って観者が移動していくのですが、その光の動きはランダムです。そのため、観者は光が当たったオブジェクトを見つけたらそちらの方向に一斉に動き出します。しかしながら、こうした動きが実は一様ではありません。

 今回の展示では一つの作品に光が当たっている時間は比較的長く設定されているため、観者はある作品が照らされている間に暗がりの中にある他の作品を見に行くこともしばしばです。こうしてほかの作品の近くにいるときに、偶然次のスポットライトが向いたとき、まなざしの倒錯は生じます。他の観者がその作品に向かって一斉に向かってくるその瞬間、衣擦れや足音が迫ってくるその瞬間、彼はまるで自分が狩られる側に回ったかのようなそこはかとない恐怖に包まれます。さらに、こうしたまなざされるものとしてのあり方は、暗闇によって増幅されます。なぜなら、光の当たっているオブジェクトの近くにいる観者にとって、暗闇から迫ってくる他の観者の姿はほとんど見ることが出来ない一方で、その彼の姿は他の観者に明瞭に映るからです。

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 こうして本来一方的にまなざす側になれるはずの展覧会の場において、一方的にまなざされる存在となる恐怖、いわばまなざしの倒錯が光と暗闇を巧みに使いこなすことで再現されていました。非常に面白い展示であっただけに、この記事を読んで仮に興味を持っていただいたとしてももう終わってしまっていることが非常に残念です。以上をもちまして大変稚拙ではありますが、展覧会レポートとさせていただきます。お読みいただきありがとうございました。

*1:冨安由真展|漂泊する幻影特設ページ

冨安由真展 | 漂泊する幻影 | Yuma Tomiyasu | Shadows of Wandering

より

「オレステスとピュラデス」感想 ギリシャ古典演劇の再演とその現代的意味

 ずいぶん頻度が空いてしまいましたが、昨年末に見て面白かった演劇「オレステスとピュラデス」の感想です。本当はすぐに書きたかったのですが課題などがありバタバタしてしまい遅くなりました。そんな感想を今になって発表しているのは授業のレポートを書くときにちょうどこの作品を分析したからでして、これ以下の文章はレポートからの抜粋となっています。そのため、少し色気のない文章になっていますが、ご容赦いただけると幸いです。内容についてはまた時間を見て微修正できたらと考えています。

www.kaat.jp

以下本論

 

  本作はアイスキュロスの「オレステス」をモチーフにして創作された作品であり、母親殺しを終えたオレステスがその贖罪のためにキュラデスとともにタウリケへと向かう過程とそこで出会う人々との交流が描きだされたものとなっている。

  本作で特に前景化されているのは表題にもあるようにオレステスとピュラデスの関係性である。オレステスはトロイヤを滅亡させた英雄アガメムノンの息子であるが、彼自身は気が弱く、旅路では多くのことをピュラデスに依存している。対してピュラデスはオレステスの従兄弟であり、実際的な能力に長けるのでタウリケへの道で多くの問題を解決するが、一方で多くを背負い込みすぎ、心理的にはオレステスに依存しているという共依存関係があった。しかし、オレステスがトロイヤでラテュロスという女性に出会い、彼女とともに生きていきたいとピュラデスに告げたとき、彼等の関係に亀裂が入る。そして最終的には彼等はすれ違いを乗り越えて和解し、ともに歩み出す。

  こうしたあらすじを見る限りでは、そのプロットは今となっては使い古されたテーマの焼き増しのように感じられてしまう。しかし、前景化されていないこの作品の細部に注意を払うと、ギリシア古典を現代に再演した理由が明らかになる。

  このオレステスとピュラデスという古典を現代に再演するに当たってまず語るべきは、コロスのパートである。本来コロスのパートにおいては、劇のテーマや内容説明が合唱を通じて行われており、観客もそれを当然のものとして受け止めていたが、現代の観客の多くはコロスについて全くなじみがなく、その存在自体も知らない人が大半である。加えて、コロスやほかの役者が用いる、本来であれば感動的であったはずの韻律も現代の人間にとっては不自然なものである。この演劇においては、こうした問題をラップバトルという形式を用いて解消している。ギリシア演劇の特徴である韻律を用いた会話展開とラップの相性が良いことは言うまでも無いが、劇中では激しい光とアップテンポな音楽の中でラップが展開されており、現代人にはなじみにくいコロスのパートや韻律での問答などを劇的にかつ違和感の少ない形で表現していた。特にクライマックスにおけるピュラデスとラテュロスの間のラップバトルは光や音楽も最高潮であり、大きなカタルシスへとつながった。こうした実践は、ギリシアなどの古典に範をとった演劇を現代に再演するに当たって非常に興味深いものであった様に思われる。

 こうした現代への移植という点はラップバトルだけではない。この作品の中で登場する人々、そしてそれを演じる役者にも、現代的に非常に重要な意味が込められている。先述のように、オレステスとピュラデスはギリシアからタウリケへと向かうのだが、その途上で多くの人々に出会う。そしてそれらの人のほとんどがトロイヤ戦争で敗戦したトロイヤ人である。そのため、彼等は行く先々でギリシア人として敵視され、彼等の先代が犯した戦争責任、そして同時に彼等もまたトロイヤ人奴隷を使役して暮らしていたことについて思い悩む。こうして戦争責任の問題が作品の中で一つ、伏線として示される。

  この点に関連して、作中にはある興味深い経歴を持つ男が登場する。彼は戦争の際にトロイヤ侵略で陣頭指揮を執り、その街を破壊したが、戦後に再びトロイヤへと戻り、橋の再建作業を進めている。これまでのところで張り巡らされてきた戦争責任に関する伏線がこうした形で解決されるかのように観客には感じられる部分であるが、実際はこうした彼の態度を偽善的だとするトロイヤ人の反対により、この橋の建設は頓挫し、トロイヤを追い出されてしまう。

  こうして解決不可能に見られた戦争責任に関する問題提起であるが、それに対する回答はアポロンの神託という形で最後に示される。そしてその内容は、「戦争や侵略をしてしまったという事実は消すことはできない。ただ、それを語り継ぎ、同時に許すことによってそれに対する怒りを静めていくことは可能である。そしてその戦争責任が自分より上の代から押しつけられたものであったとしても、それが引き起こす負の連鎖を断ち切るためには行動を起こさなければならない」というものであった。この主張自体の善し悪しについてはここで言及はしないが、こうした問題の設定の仕方は現代の日本にとって不可欠なものである。太平洋戦争において日本がアジアの国々に対して行った侵略行為は許されるものではないが、そうした戦争を経験した当事者が徐々にいなくなってしまっており、その償いを如何に遂行するべきなのかということが重要になっている現代では、上述した様な問題提起は避けて通れない。加えて、ここで示されている視点は加害者としてのものだけではなく、被害者としてのものも含んでいるのである。これは反対に、日本が第二次世界大戦において欧米列強によって支配される存在となったことに重なる。つまりこの演劇では、先の大戦において被害者であると同時に加害者であった日本が、徐々に世代交代を迎えつつある中で、そうした戦争の歴史と如何に向き合っていくべきかという問題に対する一つの回答が与えられているのである。そして私たちは、この演劇を通じて、こうした問題に今一度向き合わなければならない。

 最後に、これまでの要素を複合的に読み合わせることによって浮かびあがるテーマとして、ジェンダーの問題が存在する。先述のように、この作品には、多くのトロイヤ人が登場するが、そのすべての役が趣里という女優によって演じられている。総勢14人いるキャストの中で男性も含めたすべてのトロイヤ人の役を趣里だけで演じているという状況に、なんらかのメッセージが込められていることは明らかである。ここで、趣里が演じた役を確認するとトロイヤ人の役が4つと発狂したギリシアの老婆の役が1つである。このことからわかるのは、彼女の与えられている役が、いずれもギリシアの社会においてまともな人間として扱われない、いわば声を奪われたサバルタンであったという事実である。こうした役を、趣里という女優が一身に引き受けている様は、現代の社会に残る女性差別の問題が反映されているようにも見ることが出来る。

  ただしこの作品においては、サバルタンは声を奪われたまま終わるわけではない。トロイヤ人を演じ続ける趣里であるが、最後に演じるのはオレステスと恋に落ちるラテュロスである。先述のように、この2人の恋からオレステスとピュラデスの間に不和が生じるのであるが、そのことを巡ってラテュロスとピュラデスは口論になり、その議論が最高潮に達したとき始まるのがラップバトルである。このラップバトルは、趣里の演じるラテュロスの鋭く強い言葉から幕を開け、彼女はピュラデスに対して、ラップに乗せて臆することなく思いの丈をぶつける。つまり、ここにおいて彼女は初めて声を獲得するのである。それまで、いくつもの役を演じる中でそのすべてで常に抑圧され続けていた趣里がラップバトルにおいて生き生きとした声を獲得するシーンは、この演劇最大の盛り上がりを見せる。もちろん、現実の女性差別の問題はラップバトルだけで解決できるような問題ではない。それでも、抑圧され続けた女性がついに言葉を獲得し、臆することなく自分の意見を言える様になるシーンは今後の世界が目指すべき理想像の一つを写しているように感じられた。そしてこのような現代的なテーマが、古典ギリシアの演劇を現代に再演する中で再び浮かびあがってきた事実が、非常に興味深いものであるように思われる。

「ゲルニカ」鑑賞記録

 三日坊主からしばらく更新が止まっていましたが、観劇をしてきたのでまたその記録を書きたいと思います。今日見てきた記憶に基づいて書いているので内容には私の勘違いが存在したり、思い出す段階で無意識で内容に修正を加えていたりする可能性がありますが、ご了承ください。普段ならこうした状態で考察等を書くのは怖いので避けてきたのですが、この作品については、後述するような理由から、私の主観的な想起に基づいて感想を書くことにも一つの実験的意義があるのではないかと思い、このようなものを書くに至りました。

 まずこの演劇の簡単なあらすじについてですが、スペイン内戦下のゲルニカを描いており、バスク人ユダヤ人をめぐる民族問題や、人民戦線政府、反乱軍、宗教組織、そして階級闘争第二次世界大戦前夜の混乱の中で激動する人々が描かれ、最終的にはこれら全てを焼き払う空襲によって幕を閉じます。

 このように書くと平和や平等についてのメッセージ性が強い劇のようにも見えます。私もこの作品を見ながら最終的に平等や平和について希求するような政治的メッセージが打ち出されるのであろうと思っていたのですが、実際に細かく見ていると、劇中の言説は時として互いに矛盾していました。例えば主役であるサラは階級に関しては絶対的な平等を唱える一方で、民族問題については自身のヒターノ(スペインにおけるロマの呼称、劇中表現準拠)の血統や登場人物であるイグナシオのユダヤの血統と他の人種との間で本質主義的な差異と認めるなどしています。この点から、必ずしも平等というテーマに対してこの作品が一貫してコミットしているとは言えないのではないかと思われました。また、平和というテーマについても、平和の民とされていたバスク人が捕虜や難民を虐殺するシーンがあり、こうした暴力行為を乗り越えても最終シーンの爆撃で全てが灰燼に帰す描写などの存在から、平和の気球だけをテーマにしているわけではないということも感じられました。

 さて、以上のような概観を経て、私がこの作品に見出した一つの論点は、歴史に対する記録というものです。この作品には、主人公であるサラなど、ゲルニカに住む人々の他に、スペイン内戦を受けて外部からやってくる人々がいます。この中でも特に私が注目したのは、記者の男女2人と大学の数学科を辞めてスペイン内戦の前線へと向かうイグナシオです。

 はじめに歴史をどう記録すべきかという議論を提示するのは記者の2人です。彼らのルポルタージュは劇中でもスクリーンにその文言が投影され、それを彼らの声で読み上げるという形で観客に提示されます。その2人のうち男の記者は第二次エチオピア大戦を取材し、その記事で有名になったライターですが、彼の書く記事は彼の主観によって脚色され、まるで小説のように、詩的な言葉で人々の心を煽るように書かれていました。この特徴については彼自身も自覚があり、スペインへ向かう途上で知り合った女の記者から上述のような事実を指摘された際に、そうした事実を認めた上で、人々の関心を戦争に向けるため、そして稼ぐためにこうする他ないということで応答します。こうした男性記者に対して女性記者はルポルタージュは客観的でないとならないと述べ、戦争の実態を掴むために戦線へと向かいます。作品ではじめに示される記録に関する議論がこの主観と客観のぶつかりです。

 この主観と客観という問題は、私が勉強している文学の世界でも今まで頻繁に議論が交わされてきた領域ですが、客観的な描写というものは幻想であり、全てのものは主観的に語られるというのが定説となっているというのが私見です。こうした議論を反映するかのように、客観的な描写を求めていた女性記者も、バスクに関する伝統や神話について言及し、男の記者から理解しがたいと言われています。また、作品の後半部に近づくにつれて、女性記者は男性記者に空襲の悲惨さを訴えるために彼の言葉で記事を書いて欲しいと訴えかけます。ここにおいて、どのように記録すべきかという議論に一段落がついたように思われました。

 しかし、こうした対立にもう一つの軸が導入されます。それが数学科をやめ戦線へ向かうイグナシオという青年です。彼の登場は大学を辞めるシーンからなのですが、そこでは課題として出されていた「素数は何の役に立つか」という問いに対して、「素数を通じて全てのものを表現できる」という答えを与え、それを正解とされています。ここが描写に関する一つのヒントとなっています。さらに、彼にはもう一つ特徴がありました。それが数えられるものを全て数えてしまうというものでした。例えば彼はゲルニカの街に暮らす人や行き交う行商の数、自分が森を抜けるときの歩数やその時みた木の本数まで、全てを数えています。

 この数えるという行為を先ほどの対立軸に当てはめれば、客観的な描写ということになるのですが、ルポルタージュの文脈において、数を数えることは特別なニュアンスを持ちます。その際たるものが、被害状況の数値化です。こうした数字の持つ力が如実に現れた場面の一つが最終シーンです。イグナシオは主人公サラにその街の人数や行商の数、難民の数、そして全体として街にいる合計人数が1万人であることを告げ、サラと別れます。この直後、街に空襲が来ます。爆撃の描写ののち、このゲルニカ爆撃の死者数、負傷者数が先ほど同様スクリーンに映し出され、それを伝える記事とともに音読されます。このシーンでは、同時にこうした爆撃の被害がバスク人の自滅として一時的に処理されていたことが明かされます。ここに、言語による媒介の限界性が浮かび上がります。しかし、死者数や負傷者数に関しては偽ることができません。こうした人為や政治の可能性を排除するためのものとして数字の持つ力が浮き彫りになっていたのではないかと思われます。もちろんこの数字についても、人間の主観を完全にはいせるかと言えばそうではなく、何を数えるべきものとするかといった問題設定の段階で観測者の恣意性が入るという事実は見逃せません。

 さて、このように、「ゲルニカ」の鑑賞記録を書きましたが、私が主に感じ取ったテーマは上述のような記録をめぐる力学についての考察でしたが、これ自体がまた私自身の専門などに多分に影響を受けていることは否定できないところかと思います。また、このブログで取り上げた主観、客観、数字といった軸に加えて、劇中においてピカソの「ゲルニカ」が挿入されていたことも見逃せないポイントです。文字メディアを超えて絵画との関連性まで考察を深められるとさらに面白くなるように思います。

 最後にこの記事を書いていての感想ですが、こうした記事を書く作業を通じて、自分が劇を見ながら感じた漠然とした感覚を言語化すると同時に、これを見た人からのリアクションを通じてこの感想を相対化していければと思います。また、同時に観劇という経験を想起しながら書くという作業は、スケールは全く異なりますが、歴史の記録と同じです。この実践が記録に関する問題を再度考え直す良い機会になったのではないかと思います。

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ミステリーにおいて背景化される証拠について

 近いうちにアガサ・クリスティアクロイド殺し」についての簡単な発表を行うことになったので、ここ数日ミステリーをいろいろ読んでいます。読んでて少し気になったのがタイトルの通り、証拠についてです。

 

 有名な著作なのでご存知の方も多いと思うのですが、「アクロイド殺し」には、「アクロイドを殺したのは誰か」という、フランスの文芸批評家であるピエール・バイヤールによる著名な評論が存在します。今回の問題意識はその内容から少し着想を得たものです。せっかくのミステリー作品なので、あまり作品の具体的な話はせず、ネタバレしないようにこの記事の中では書いていく予定です。

 

 さて、それでは本題の証拠についてです。ミステリー作品では多くの場合、読者をミスリードさせるという目的のもと、多くの謎が提示されます。謎というのも、犯人は誰かといった大きな話ではなくて、犯行現場に残されている謎のコインや、思わせぶりなダイイングメッセージなどです。そのようにいかにも怪しげな証拠が多数出てくる中で、読者はそれらを組み合わせ、犯人を予想しながらミステリーを読んでいくことになると思います。

 

 このように犯人を追うのは読者だけではありません。多くのミステリー小説、特に、「シャーロック・ホームズ」などの系譜を引いた探偵が事件を解決するミステリーでは、偽の証拠に翻弄される咬ませ犬が存在します(多くの場合警察、シャーロック・ホームズならレストレード)。彼らがそうしたミスリーディングな証拠を必死に追い求める一方で、探偵は複数の証拠の中から犯人の特定につながる本質的な証拠を直感的に見極め、犯人にたどり着きます。

 

 多くの小説では、最終シーンにいたるまでに咬ませ犬が追っていた証拠では犯人にたどり着けなかったり、推理に矛盾が生じたりし、彼らは途方に暮れることになります。そこに颯爽と現れた探偵が、全てを解き明かし、大団円。何冊かの推理小説を読めば一度はぶつかる構図だと思います。

 

 ここまで整理した中で、私が強調した部分、探偵が本質的な証拠を直感的に見極めるということが、思考のポイントです。多くの場合、探偵はなんらかの証拠に注目する際は、なぜその証拠に注目したのかについての説明をするものですが、反対に注目しなかった証拠については「こんなのはミスリーディングに過ぎない」と無根拠に一蹴します。説明があってもせいぜい類型的なもの「こういうのはよくあるミスリーディングだ」などだけだと思います。

 

 もちろん私もミステリーを大量に読んでいるというわけではないので断言はできないのですが、現実的な話の展開から考えれば、ある証拠に注目しない根拠を論理的に示すことがまず不可能であることが、わかると思います。事件の背景について何も知らない状態で事件を見る限り、全ての証拠は等価に存在しているはずであり、それら全てについて仔細に検討することなしに、なんらかの証拠を背景化することは行い得ないはずです。

 

 このように、探偵がある事実を棄却することには、なんらかの恣意性が存在することがわかりました。他の形態の小説に比べて論理的な厳密さの要求水準が高いミステリーという形式において、この恣意性はどのようにして補われるのでしょうか。それは先にも述べた咬ませ犬たる存在の捜査によってです。彼らが探偵からはミスリーディングとして一蹴された証拠について調査を行い、最終的にそれが犯人につながらないということを示すことによって、探偵の恣意的な判断の結果が、正しいものであることを担保されているのです。逆に言えば、咬ませ犬による捜査も行われず、探偵からも棄却されてしまった証拠は、完全なブラックボックスになってしまうのです。

 

 このようなブラックボックスがありながらも、私たちが特定の人物が犯人であったと確信できる根拠は犯人とされた人物の自白や手記によるしかありませんが、その自白の信用性については、基本的に読者は知り得ません。これは後期クイーン的問題とも通じるところになります。逆に言えば、先に述べたブラックボックス化によるテクスト上での犯人の決定不可能性を完全に排除するためには、大量の咬ませ犬を用意して、全ての証拠について検証をさせるということが一つの回答となるのかもしれません。もちろん物語世界内にあり得た何らかの新たな証拠の存在可能性について棄却することはできないですし、探偵も含めた捜査員の捜査が不十分である可能性は消しきれません。それにもはや探偵小説というよりも人海戦術で砂の中の針を探すような途方もないものになってしまうと思いますが。

安藤宏「『私』をつくるー近代小説の試みー」

 安藤宏先生の「『私』をつくるー近代小説の試みー」を読みました。

 その議論の射程は近代文学史だけに止まらず、それ以前の日本文学が西洋小説を輸入していく中でいかに変容していったかということを、幅広い作品に対する目配りの上で明晰に記述されており、強い感銘を受けました。

 特に興味深く読ませていただいた論点について私なりにまとめてみました。

 1. 語りについて

 この本全体を貫く大きな柱として、語り手をめぐる作者の格闘というものがありました。前近代的な神出鬼没の語り手が、西洋の文学理論の流入を受けて変革を迫られる中で、動揺していく様が克明に分析されていました。

 特に私が心惹かれたのが、泉鏡花を筆頭にした怪異的な小説についての分析についてです。一般的に、泉鏡花などの幻想小説は、それ自体が一つのジャンルとして捉えられ、同時代に主流であった自然主義とは距離を置く、独自の文学世界を形成したということで、近代文学史の中ではあくまで傍流としての扱いを受けることが多いかと思います。しかし、この本では、泉鏡花による怪異の描き方を、江戸戯作文学などにみられる怪異譚と比較し、そこに存在する語り手の配置など、小説の技巧を捉えることにより、他の作品と同様に、怪異譚も近代化をしていたのだという事実を指摘しています。この部分を読んだ時には、その視点の面白さに強い衝撃を受けました。

 

 2. 「私」について

 この本のタイトルにもなっている「私」という存在についても、非常に重厚な論が展開されていました。そこでは一人称での語りについてさらなる細分化が図られ、それの持つ機能が分析されていました。特に私が感銘を受けたポイントは、書く「私」という一見歪な存在を作ることそれ自体が、作品の機能として重要であり、こうした存在があることによって、伝聞と回想の両立による作品の奥行きや、人間の本質を自然な形で描こうとする姿勢につながったとする議論は、非常に面白いものでした。

 

 3. 書けないことについて

 この作品のもう一つの柱となっているのは作中における書けない小説家です。特に論の中では太宰治道化の華」と志賀直哉「和解」が例に出されていましたが、作品を通してかけない小説家を描くことで、その書けないという空白がなぜ生まれたのか、という物語世界の位相を超えたメタなテーマが現出するとされていました。それと同時に、作品の中に作品を書けない小説家を登場させることは、舞台裏を読者に見せるというある種のサービスであり、さらにはそうした技法をとることで、作品が無限に循環していくという、深みにもつながるという、分析は非常に面白いものでした。自分も以前、「道化の華」についてはその循環的な入れ子構造の迷路にはまり、混乱させられた記憶もあるので、そうしたことを思い返しながら、安藤先生の分析を読むと、その明晰さに蒙を開かれる思いでした。

 

 他にも数多く、書きたい点はあるのですが、あまり書きすぎてもあれですので、この辺りで筆を置かせていただければと思います。ここまでお読みいただいた方はありがとうございました。非常に深い分析が、極めて分かりやすく明晰に、広範な実証分析に基づいて行われており、読んでいて非常に面白いですので、興味を持たれた方は是非。

ブログ始めました

いろいろな本や論文を読んだ後に自分の中でしっかり咀嚼せずに終わってしまうことも多いなと思うことが増えてきたので自分にプレッシャーをかけるつもりでブログを始めました。

 

読んでみて面白かった本や考えたことなどを備忘録的に書いていければと思います。飽き性なのでどれだけ続くかはわかりませんが、なるだけ続くように頑張ります。