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「ゲルニカ」鑑賞記録

 三日坊主からしばらく更新が止まっていましたが、観劇をしてきたのでまたその記録を書きたいと思います。今日見てきた記憶に基づいて書いているので内容には私の勘違いが存在したり、思い出す段階で無意識で内容に修正を加えていたりする可能性がありますが、ご了承ください。普段ならこうした状態で考察等を書くのは怖いので避けてきたのですが、この作品については、後述するような理由から、私の主観的な想起に基づいて感想を書くことにも一つの実験的意義があるのではないかと思い、このようなものを書くに至りました。

 まずこの演劇の簡単なあらすじについてですが、スペイン内戦下のゲルニカを描いており、バスク人ユダヤ人をめぐる民族問題や、人民戦線政府、反乱軍、宗教組織、そして階級闘争第二次世界大戦前夜の混乱の中で激動する人々が描かれ、最終的にはこれら全てを焼き払う空襲によって幕を閉じます。

 このように書くと平和や平等についてのメッセージ性が強い劇のようにも見えます。私もこの作品を見ながら最終的に平等や平和について希求するような政治的メッセージが打ち出されるのであろうと思っていたのですが、実際に細かく見ていると、劇中の言説は時として互いに矛盾していました。例えば主役であるサラは階級に関しては絶対的な平等を唱える一方で、民族問題については自身のヒターノ(スペインにおけるロマの呼称、劇中表現準拠)の血統や登場人物であるイグナシオのユダヤの血統と他の人種との間で本質主義的な差異と認めるなどしています。この点から、必ずしも平等というテーマに対してこの作品が一貫してコミットしているとは言えないのではないかと思われました。また、平和というテーマについても、平和の民とされていたバスク人が捕虜や難民を虐殺するシーンがあり、こうした暴力行為を乗り越えても最終シーンの爆撃で全てが灰燼に帰す描写などの存在から、平和の気球だけをテーマにしているわけではないということも感じられました。

 さて、以上のような概観を経て、私がこの作品に見出した一つの論点は、歴史に対する記録というものです。この作品には、主人公であるサラなど、ゲルニカに住む人々の他に、スペイン内戦を受けて外部からやってくる人々がいます。この中でも特に私が注目したのは、記者の男女2人と大学の数学科を辞めてスペイン内戦の前線へと向かうイグナシオです。

 はじめに歴史をどう記録すべきかという議論を提示するのは記者の2人です。彼らのルポルタージュは劇中でもスクリーンにその文言が投影され、それを彼らの声で読み上げるという形で観客に提示されます。その2人のうち男の記者は第二次エチオピア大戦を取材し、その記事で有名になったライターですが、彼の書く記事は彼の主観によって脚色され、まるで小説のように、詩的な言葉で人々の心を煽るように書かれていました。この特徴については彼自身も自覚があり、スペインへ向かう途上で知り合った女の記者から上述のような事実を指摘された際に、そうした事実を認めた上で、人々の関心を戦争に向けるため、そして稼ぐためにこうする他ないということで応答します。こうした男性記者に対して女性記者はルポルタージュは客観的でないとならないと述べ、戦争の実態を掴むために戦線へと向かいます。作品ではじめに示される記録に関する議論がこの主観と客観のぶつかりです。

 この主観と客観という問題は、私が勉強している文学の世界でも今まで頻繁に議論が交わされてきた領域ですが、客観的な描写というものは幻想であり、全てのものは主観的に語られるというのが定説となっているというのが私見です。こうした議論を反映するかのように、客観的な描写を求めていた女性記者も、バスクに関する伝統や神話について言及し、男の記者から理解しがたいと言われています。また、作品の後半部に近づくにつれて、女性記者は男性記者に空襲の悲惨さを訴えるために彼の言葉で記事を書いて欲しいと訴えかけます。ここにおいて、どのように記録すべきかという議論に一段落がついたように思われました。

 しかし、こうした対立にもう一つの軸が導入されます。それが数学科をやめ戦線へ向かうイグナシオという青年です。彼の登場は大学を辞めるシーンからなのですが、そこでは課題として出されていた「素数は何の役に立つか」という問いに対して、「素数を通じて全てのものを表現できる」という答えを与え、それを正解とされています。ここが描写に関する一つのヒントとなっています。さらに、彼にはもう一つ特徴がありました。それが数えられるものを全て数えてしまうというものでした。例えば彼はゲルニカの街に暮らす人や行き交う行商の数、自分が森を抜けるときの歩数やその時みた木の本数まで、全てを数えています。

 この数えるという行為を先ほどの対立軸に当てはめれば、客観的な描写ということになるのですが、ルポルタージュの文脈において、数を数えることは特別なニュアンスを持ちます。その際たるものが、被害状況の数値化です。こうした数字の持つ力が如実に現れた場面の一つが最終シーンです。イグナシオは主人公サラにその街の人数や行商の数、難民の数、そして全体として街にいる合計人数が1万人であることを告げ、サラと別れます。この直後、街に空襲が来ます。爆撃の描写ののち、このゲルニカ爆撃の死者数、負傷者数が先ほど同様スクリーンに映し出され、それを伝える記事とともに音読されます。このシーンでは、同時にこうした爆撃の被害がバスク人の自滅として一時的に処理されていたことが明かされます。ここに、言語による媒介の限界性が浮かび上がります。しかし、死者数や負傷者数に関しては偽ることができません。こうした人為や政治の可能性を排除するためのものとして数字の持つ力が浮き彫りになっていたのではないかと思われます。もちろんこの数字についても、人間の主観を完全にはいせるかと言えばそうではなく、何を数えるべきものとするかといった問題設定の段階で観測者の恣意性が入るという事実は見逃せません。

 さて、このように、「ゲルニカ」の鑑賞記録を書きましたが、私が主に感じ取ったテーマは上述のような記録をめぐる力学についての考察でしたが、これ自体がまた私自身の専門などに多分に影響を受けていることは否定できないところかと思います。また、このブログで取り上げた主観、客観、数字といった軸に加えて、劇中においてピカソの「ゲルニカ」が挿入されていたことも見逃せないポイントです。文字メディアを超えて絵画との関連性まで考察を深められるとさらに面白くなるように思います。

 最後にこの記事を書いていての感想ですが、こうした記事を書く作業を通じて、自分が劇を見ながら感じた漠然とした感覚を言語化すると同時に、これを見た人からのリアクションを通じてこの感想を相対化していければと思います。また、同時に観劇という経験を想起しながら書くという作業は、スケールは全く異なりますが、歴史の記録と同じです。この実践が記録に関する問題を再度考え直す良い機会になったのではないかと思います。

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