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安藤宏「『私』をつくるー近代小説の試みー」

 安藤宏先生の「『私』をつくるー近代小説の試みー」を読みました。

 その議論の射程は近代文学史だけに止まらず、それ以前の日本文学が西洋小説を輸入していく中でいかに変容していったかということを、幅広い作品に対する目配りの上で明晰に記述されており、強い感銘を受けました。

 特に興味深く読ませていただいた論点について私なりにまとめてみました。

 1. 語りについて

 この本全体を貫く大きな柱として、語り手をめぐる作者の格闘というものがありました。前近代的な神出鬼没の語り手が、西洋の文学理論の流入を受けて変革を迫られる中で、動揺していく様が克明に分析されていました。

 特に私が心惹かれたのが、泉鏡花を筆頭にした怪異的な小説についての分析についてです。一般的に、泉鏡花などの幻想小説は、それ自体が一つのジャンルとして捉えられ、同時代に主流であった自然主義とは距離を置く、独自の文学世界を形成したということで、近代文学史の中ではあくまで傍流としての扱いを受けることが多いかと思います。しかし、この本では、泉鏡花による怪異の描き方を、江戸戯作文学などにみられる怪異譚と比較し、そこに存在する語り手の配置など、小説の技巧を捉えることにより、他の作品と同様に、怪異譚も近代化をしていたのだという事実を指摘しています。この部分を読んだ時には、その視点の面白さに強い衝撃を受けました。

 

 2. 「私」について

 この本のタイトルにもなっている「私」という存在についても、非常に重厚な論が展開されていました。そこでは一人称での語りについてさらなる細分化が図られ、それの持つ機能が分析されていました。特に私が感銘を受けたポイントは、書く「私」という一見歪な存在を作ることそれ自体が、作品の機能として重要であり、こうした存在があることによって、伝聞と回想の両立による作品の奥行きや、人間の本質を自然な形で描こうとする姿勢につながったとする議論は、非常に面白いものでした。

 

 3. 書けないことについて

 この作品のもう一つの柱となっているのは作中における書けない小説家です。特に論の中では太宰治道化の華」と志賀直哉「和解」が例に出されていましたが、作品を通してかけない小説家を描くことで、その書けないという空白がなぜ生まれたのか、という物語世界の位相を超えたメタなテーマが現出するとされていました。それと同時に、作品の中に作品を書けない小説家を登場させることは、舞台裏を読者に見せるというある種のサービスであり、さらにはそうした技法をとることで、作品が無限に循環していくという、深みにもつながるという、分析は非常に面白いものでした。自分も以前、「道化の華」についてはその循環的な入れ子構造の迷路にはまり、混乱させられた記憶もあるので、そうしたことを思い返しながら、安藤先生の分析を読むと、その明晰さに蒙を開かれる思いでした。

 

 他にも数多く、書きたい点はあるのですが、あまり書きすぎてもあれですので、この辺りで筆を置かせていただければと思います。ここまでお読みいただいた方はありがとうございました。非常に深い分析が、極めて分かりやすく明晰に、広範な実証分析に基づいて行われており、読んでいて非常に面白いですので、興味を持たれた方は是非。