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「オレステスとピュラデス」感想 ギリシャ古典演劇の再演とその現代的意味

 ずいぶん頻度が空いてしまいましたが、昨年末に見て面白かった演劇「オレステスとピュラデス」の感想です。本当はすぐに書きたかったのですが課題などがありバタバタしてしまい遅くなりました。そんな感想を今になって発表しているのは授業のレポートを書くときにちょうどこの作品を分析したからでして、これ以下の文章はレポートからの抜粋となっています。そのため、少し色気のない文章になっていますが、ご容赦いただけると幸いです。内容についてはまた時間を見て微修正できたらと考えています。

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以下本論

 

  本作はアイスキュロスの「オレステス」をモチーフにして創作された作品であり、母親殺しを終えたオレステスがその贖罪のためにキュラデスとともにタウリケへと向かう過程とそこで出会う人々との交流が描きだされたものとなっている。

  本作で特に前景化されているのは表題にもあるようにオレステスとピュラデスの関係性である。オレステスはトロイヤを滅亡させた英雄アガメムノンの息子であるが、彼自身は気が弱く、旅路では多くのことをピュラデスに依存している。対してピュラデスはオレステスの従兄弟であり、実際的な能力に長けるのでタウリケへの道で多くの問題を解決するが、一方で多くを背負い込みすぎ、心理的にはオレステスに依存しているという共依存関係があった。しかし、オレステスがトロイヤでラテュロスという女性に出会い、彼女とともに生きていきたいとピュラデスに告げたとき、彼等の関係に亀裂が入る。そして最終的には彼等はすれ違いを乗り越えて和解し、ともに歩み出す。

  こうしたあらすじを見る限りでは、そのプロットは今となっては使い古されたテーマの焼き増しのように感じられてしまう。しかし、前景化されていないこの作品の細部に注意を払うと、ギリシア古典を現代に再演した理由が明らかになる。

  このオレステスとピュラデスという古典を現代に再演するに当たってまず語るべきは、コロスのパートである。本来コロスのパートにおいては、劇のテーマや内容説明が合唱を通じて行われており、観客もそれを当然のものとして受け止めていたが、現代の観客の多くはコロスについて全くなじみがなく、その存在自体も知らない人が大半である。加えて、コロスやほかの役者が用いる、本来であれば感動的であったはずの韻律も現代の人間にとっては不自然なものである。この演劇においては、こうした問題をラップバトルという形式を用いて解消している。ギリシア演劇の特徴である韻律を用いた会話展開とラップの相性が良いことは言うまでも無いが、劇中では激しい光とアップテンポな音楽の中でラップが展開されており、現代人にはなじみにくいコロスのパートや韻律での問答などを劇的にかつ違和感の少ない形で表現していた。特にクライマックスにおけるピュラデスとラテュロスの間のラップバトルは光や音楽も最高潮であり、大きなカタルシスへとつながった。こうした実践は、ギリシアなどの古典に範をとった演劇を現代に再演するに当たって非常に興味深いものであった様に思われる。

 こうした現代への移植という点はラップバトルだけではない。この作品の中で登場する人々、そしてそれを演じる役者にも、現代的に非常に重要な意味が込められている。先述のように、オレステスとピュラデスはギリシアからタウリケへと向かうのだが、その途上で多くの人々に出会う。そしてそれらの人のほとんどがトロイヤ戦争で敗戦したトロイヤ人である。そのため、彼等は行く先々でギリシア人として敵視され、彼等の先代が犯した戦争責任、そして同時に彼等もまたトロイヤ人奴隷を使役して暮らしていたことについて思い悩む。こうして戦争責任の問題が作品の中で一つ、伏線として示される。

  この点に関連して、作中にはある興味深い経歴を持つ男が登場する。彼は戦争の際にトロイヤ侵略で陣頭指揮を執り、その街を破壊したが、戦後に再びトロイヤへと戻り、橋の再建作業を進めている。これまでのところで張り巡らされてきた戦争責任に関する伏線がこうした形で解決されるかのように観客には感じられる部分であるが、実際はこうした彼の態度を偽善的だとするトロイヤ人の反対により、この橋の建設は頓挫し、トロイヤを追い出されてしまう。

  こうして解決不可能に見られた戦争責任に関する問題提起であるが、それに対する回答はアポロンの神託という形で最後に示される。そしてその内容は、「戦争や侵略をしてしまったという事実は消すことはできない。ただ、それを語り継ぎ、同時に許すことによってそれに対する怒りを静めていくことは可能である。そしてその戦争責任が自分より上の代から押しつけられたものであったとしても、それが引き起こす負の連鎖を断ち切るためには行動を起こさなければならない」というものであった。この主張自体の善し悪しについてはここで言及はしないが、こうした問題の設定の仕方は現代の日本にとって不可欠なものである。太平洋戦争において日本がアジアの国々に対して行った侵略行為は許されるものではないが、そうした戦争を経験した当事者が徐々にいなくなってしまっており、その償いを如何に遂行するべきなのかということが重要になっている現代では、上述した様な問題提起は避けて通れない。加えて、ここで示されている視点は加害者としてのものだけではなく、被害者としてのものも含んでいるのである。これは反対に、日本が第二次世界大戦において欧米列強によって支配される存在となったことに重なる。つまりこの演劇では、先の大戦において被害者であると同時に加害者であった日本が、徐々に世代交代を迎えつつある中で、そうした戦争の歴史と如何に向き合っていくべきかという問題に対する一つの回答が与えられているのである。そして私たちは、この演劇を通じて、こうした問題に今一度向き合わなければならない。

 最後に、これまでの要素を複合的に読み合わせることによって浮かびあがるテーマとして、ジェンダーの問題が存在する。先述のように、この作品には、多くのトロイヤ人が登場するが、そのすべての役が趣里という女優によって演じられている。総勢14人いるキャストの中で男性も含めたすべてのトロイヤ人の役を趣里だけで演じているという状況に、なんらかのメッセージが込められていることは明らかである。ここで、趣里が演じた役を確認するとトロイヤ人の役が4つと発狂したギリシアの老婆の役が1つである。このことからわかるのは、彼女の与えられている役が、いずれもギリシアの社会においてまともな人間として扱われない、いわば声を奪われたサバルタンであったという事実である。こうした役を、趣里という女優が一身に引き受けている様は、現代の社会に残る女性差別の問題が反映されているようにも見ることが出来る。

  ただしこの作品においては、サバルタンは声を奪われたまま終わるわけではない。トロイヤ人を演じ続ける趣里であるが、最後に演じるのはオレステスと恋に落ちるラテュロスである。先述のように、この2人の恋からオレステスとピュラデスの間に不和が生じるのであるが、そのことを巡ってラテュロスとピュラデスは口論になり、その議論が最高潮に達したとき始まるのがラップバトルである。このラップバトルは、趣里の演じるラテュロスの鋭く強い言葉から幕を開け、彼女はピュラデスに対して、ラップに乗せて臆することなく思いの丈をぶつける。つまり、ここにおいて彼女は初めて声を獲得するのである。それまで、いくつもの役を演じる中でそのすべてで常に抑圧され続けていた趣里がラップバトルにおいて生き生きとした声を獲得するシーンは、この演劇最大の盛り上がりを見せる。もちろん、現実の女性差別の問題はラップバトルだけで解決できるような問題ではない。それでも、抑圧され続けた女性がついに言葉を獲得し、臆することなく自分の意見を言える様になるシーンは今後の世界が目指すべき理想像の一つを写しているように感じられた。そしてこのような現代的なテーマが、古典ギリシアの演劇を現代に再演する中で再び浮かびあがってきた事実が、非常に興味深いものであるように思われる。